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恩師との出会いから芸術の道へ。妻の言葉で彫刻家として歩むことを決意し74歳の今も現役で活躍
本記事は、WOW WORLDがスポンサーを務めていたラジオ番組『森清華のLife is the journey』の放送内容の一部をテキストでご紹介するものです。
当番組は2025年3月に終了するまで、かわさきエフエム(79.1MHz)にて8年半にわたり放送。パーソナリティの森清華さんが、最前線で活躍されている企業経営者や各界のスペシャリストの“人生の分岐点”から「これからのキャリア、生き方のヒント」を紐解きます。(※文中の組織名、ゲストの方の肩書等は放送当時のものです。)
今回はゲストに、彫刻家の市川明廣さんをお迎えしました。恩師とロダン作品との出会いが、彫刻家としての原点。父親の反対もありながら東京藝術大学・大学院で学び、純粋芸術の世界に進みます。40代のころ、妻の一言により生涯彫刻家として歩むことを決意。数々の賞を受賞し、74歳となった現在も精力的に作品を作り続ける市川さんに、彫刻家として心がけていることなどを伺いました。
高校時代、恩師に進路の相談をした市川さんは、東京藝術大学への進学を決意。美術展でロダンの作品に感動したことが、彫刻家を志すきっかけになります。
森さんー 市川さんは芸術の世界で非常に活躍をされていますが、そもそも彫刻家を志した理由はどのようなことでしょうか?
市川さんー 原点となったのは、恩師である中学校の美術の先生に、大学への進路について相談したことですね。進学校の高校に進み、私は家庭の事情で国公立大学への進学クラスに入ったのですが、担任から学力的に厳しいと言われまして。よく調べてみたら、愛知芸術大学、東京藝術大学は行けそうだということがわかりました。そこで、中学時代、私の作品を参考資料として後世の子どもたちに残してくれるほど私を買ってくれていた恩師に相談し、美術の道に進むことにしたのです。
森さんー そこがスタートになるわけですね。ご家族の反応はいかがでしたか?
市川さんー 母親は前向きでしたが、公務員の父親は、「絵を描いたり物を作ったりして生活できるわけないじゃないか」と、かなり怒りました。けれども、父親の弟が中学校の美術の教師で、東京に住んでいたことから「下宿しないか」と言ってくれまして。当時私は愛知に住んでいたのですが、愛知から東京に出て東京藝術大学を受験することができました。
森さんー そのようにして進学されたわけですが、さまざまな美術がある中で、なぜ彫刻だったのでしょうか?
市川さんー デッサンなどの受験準備を恩師の下でしていたときに、京都で開催されていた「ロダン展」の入場券をもらったのです。実際にロダンの作品を目にして、本当に身を震わせるような素晴らしさを感じました。これはすごい、と帰ってきて恩師に話したところ、「ファインアート(※)というもので、価値があるのだ」と教えてもらい、あっという間に彫刻にのめり込んでいったのです。
※ファインアート:実用的なものに付属するのではなく、純粋に芸術的価値を専らにする活動や作品を指す概念。とくに応用芸術、大衆芸術と区別して純粋芸術を意味する場合に使われる。
東京藝術大学大学院を卒業した後、市川さんは非常勤講師として勤務しながら、作品作りを続けます。日本の美術家団体が毎年開催する美術公募展「二科展」にも毎年出品し、数々の賞を受賞します。
森さんー 市川さんは大学を卒業した後、どのような道を歩んで来られたのでしょうか。
市川さんー 若いころは、作品を作ったらすぐ売れるというわけではないので、まずは生活をするために別の働き口を見つけなければいけません。卒業時、東京藝術大学の非常勤講師として大学に残らないか、という話をいただき、何年か勤務しました。その後も東京の高校・中学の美術部門の非常勤講師として働きながら、主たる時間を彫刻に割いていました。当時、大学の教授が二科展に素晴らしい作品を出されていて、それに憧れて私も出品を決意。それから毎年二科展に参加し、賞をいただくなどして制作を続けてきました。
森さんー 現在は二科会の評議員を務めながら、二科展の第100回記念展でローマ賞を受賞されるなどご活躍を続けていらっしゃいますが、初めてご自身の作品を買っていただいたときの出来事を覚えていらっしゃいますか?
市川さんー 初めて自分の作品が売れたのは、大学時代、銀座で彫刻だけのグループ展をしたときですね。最終日になって「何も売れないね」と話していると、当時付き合っていた彼女のおじさんがふらっと入ってこられて。何も言わず私の作品を見ていたのですが、「これください」と買ってくださいました。彼女とは4年ほど交際し、大学の非常勤講師をしているときに結婚したのですけれども、そのときのお金で婚約イヤリングを買いました。
非常勤講師をしながら制作を続けてきた市川さんは、40歳のころ妻の言葉に衝撃を受け、生涯、彫刻家として歩むことを決めます。「今も制作を続けられているのは、あの言葉があったから」と当時を振り返ります。
森さんー これまでの歩みを振り返ったとき、彫刻家としての分岐点はどの場面だとお考えでしょうか?
市川さんー 40歳ぐらいのころ、「うちの常勤の先生にならないか?」と、小中高大一貫校の先生から話がありました。「これでちゃんとした生活ができるな」と喜んで妻に話したら、「あなたは彫刻家でしょう。私は学校の先生と結婚したつもりはありません。学校の先生であってはならないと思いますよ」と言われまして。その言葉に、ガツンと頭を殴られたように感じました。心強いといいますか、叱咤激励という感じで。それが大きな分岐点でしたね。それ以降は常勤にならず、彫刻制作を主たるものとし、従として非常勤講師をしながら今日まで制作をおこなっています。
森さんー ものすごく大きな決断、覚悟ですよね。
市川さんー 非常勤なので妻も貧乏生活をしたわけですが、当時を振り返りながら満足してくれていますね。ありがたいことに、私が今もまだ制作を続けられているのは、妻のあの一言があったからだと思っています。
現在も彫刻家として活躍されている市川さんの彫刻作品は、日本全国さまざまな場所に設置されています。市川さんが彫刻をしていく上で、日々心がけていることを伺いました。
森さんー 現在、市川さんはどのような作品を手がけていらっしゃるのでしょうか。
市川さんー 現在取り組んでいるのは、石を中心に削っていく仕事です。具体的で、目で見てわかりやすい具象的なものを彫って、みなさんに提供しています。
森さんー 公共施設のモニュメントや一般家庭のインテリアなど、本当に幅広く手がけていらっしゃるとのことですが、どこで市川さんの作品を見られるのでしょうか?
市川さんー 北は北海道から、南は九州まで作品が設置されています。東京都では常盤小学校、埼玉県では私の住んでいる川口市のめぐりの森にありますね。千葉県ですと、図書館の前や橋の欄干にもあります。いろいろなところで作品の展示や設置をさせていただいて、今日まできました。
森さんー 彫刻をしていく上で、どのようなことを日々心がけていらっしゃいますか?
市川さんー 私が制作をするときに心がけているのは、「無作(むさ)」ということです。つくろわず、格好をつけないで、ありのまま。そのスタイルで石を彫り続けたいと思っていますが、いざ作品に向かったときは「こういう風にしたい」「このアイデアはここに入れてみたい」などいろいろと考えてしまい、なかなか難しいです。
森さんー 自分の心の中で葛藤しながら、でも前に進んで行くということなのですね。
市川さんー そうですね。よく売れるかとか、人の目に触れるかなどは関係なく、私にとって彫刻は、一生涯続けていくライフワークです。今後も制作を続けていきたいと思っています。
森さんー これから自分の夢を実現しようと考えている方々へ、背中を押すメッセージをお願いいたします。
市川さんー 自分の命を大切にしながら、「長生きをしよう」という想いを強く持ってください。私自身、過去に胃癌を患った経験があるからこそ、長生きをすることが大きな目標であると考えています。長く生きることで、自分の個性や、本当に作りたいものが必ずいつかは出てくる。たとえ途中であっても、前のめりに倒れても構いません。死ぬまで自分の持っているものを出し切りましょう。
『森清華のLife is the journey』
→アーカイブ放送は、こちらからお聴きいただけます
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