取り組み・活動

キャリア・生き方
2023年03月27日

パイロットになるため渡米!複数のキャリアプランを持ち、予測不可能な事態を乗り越える生き方

WOW WORLDがスポンサーを務める『森清華のLife is the journey』(かわさきエフエム)は、パーソナリティの森清華さんが、最前線で活躍されている企業経営者や各界のスペシャリストの“人生の分岐点”から、「これからのキャリア、生き方のヒント」を紐解いていくラジオ番組です。

今回はアメリカと音声をつなぎ、同国在住のパイロット 青木美和さんと共にお届けします。幼少期に抱いた航空業界への憧れから航空大学校への進学を希望しますが、日本で女性パイロットを目指す厳しさに直面。祖父の言葉に発奮して渡米し、英語に対する苦手意識を乗り越え、夢を実現します。航空業界のアジア女性を応援する400名超コミュニティの運営や、育休中のパン屋開業など、エネルギッシュに活動する青木さんに、アメリカにおけるキャリアプランの考え方を伺いました。

パイロット 青木美和さん

※『森清華のLife is the journey』は、かわさきエフエム(79.1MHz)にて毎週水曜日 午後9時~9時30分オンエア。このコーナーでは、その中から月に1本、当社が選定した回を一部抜粋してテキストでご紹介します。

【キャリアの原点】幼い頃から抱いていた航空業界への憧れ。日本で女性がパイロットになることが難しい現実に直面し渡米

飛行機や航空業界に憧れ始めた幼少期。その後パイロットになる道を選ぶ青木さんですが、当時の日本では難しいことがわかります。夢の実現のために渡米を決意したきっかけとは。

森さん なぜパイロットになろうと思われたのでしょうか?

青木さん 私は愛知県豊橋市で生まれ、県営名古屋空港(小牧空港)に離着陸する飛行機が実家の上を飛んでいる環境で育ちました。ドイツに親戚が住んでおり、私が3~4歳の頃、母親から「あの飛行機に乗ったら、異国の地ドイツに連れていってもらえるよ」と聞き、飛行機や航空業界に憧れを感じるようになりました。

森さん 夢を目指して一歩進もうと思った中で、アメリカに行くという選択をされていますが、どのような背景があったのでしょうか?

青木さん 高校の時、進路指導の先生から将来の方向性について聞かれ、「パイロットになりたいと思います」と話すと、「人生真面目に考えろ」と怒られてしまいました。さらに、当時パイロットになるには、航空大学校に行くのが最短ルートだったので、入学願書を取り寄せるために電話をすると、事務の人から「女性更衣室はなかったかも」と言われたのです。

当時、私は16歳。大人に言われた言葉をそのまま受け止め、「パイロットなんて無理なのかも」「現実的ではなかったのか」と、諦めかけてしまいました。けれど、私の人生でラッキーだったのは、周りに尊敬する人が大勢いたことです。中でも尊敬していた祖父から「日本でパイロットになれないなら、アメリカに行ってこい」と言われました。

最初は、「英語なんてできないし外国に行きたくない」と悩んだのですが、私の負けず嫌いな性格をよく知っていた祖父から、「人が通らない道をこれから進もうとする時に、そんな弱気では絶対にパイロットになんかなれないと思うよ」と言われました。その言葉で心に火がつき、留学することを決めて勉強を始めたのです。

【キャリアの分岐点】英語コンプレックスの克服。「もう一回言ってください」と言う勇気を学ぶ

英語につまずき、落ちこぼれていると思っていたのは自分だけだった。そう気づかせてくれた出来事のおかげで、英語への苦手意識がなくなります。

森さん アメリカに来られてから今までの道のりを振り返った時、人生の分岐点となったのはどのような場面でしょうか?

青木さん アメリカに来て一番苦労したのが、英語です。私はパイロットになりたいという夢のために渡米を決め、そこから勉強を始めたので、この国に来た時は本当に英語ができませんでした。

2~3年が経ち、フライトトレーニングも始まったのですが、アメリカ人の方たちとは差がついていました。飛ぶこと自体は得意だったのですが、管制塔との英語でのやりとりにつまずいていたのです。そんなとき、一緒に学んでいた友人のジャスティンが、「今夜僕のフライトトレーニングがあるから、管制塔とのやりとりを聞きに来ないか」と言ってくれまして。操縦しない状態なら落ち着いて聞ける、と思い見学することにしました。

いざトレーニングが始まると、ジャスティンはアメリカ人なのに、管制官の英語が聞き取れていないのです。何回も「もう一回言ってください」と、管制官に問いかけているのを聞いて、「この状況は私と変わらないのでは!?」と思いました。私は、自分だけが管制塔の話を聞き取れなくて落ちこぼれていると思っていたのですが、ネイティブの人でさえもうまくできないのだと、その時わかったのです。管制官とのやり取りは、コックピットの中でヘッドセットをつけておこなわれます。顔が見えず、しかも専門用語が多いため、聞き取れないのは当たり前だったのです。

ジャスティンが何回も「教えてください」と恥ずかしがる様子もなく聞き、管制塔も親切に何回もリピートしてくれていたのを聞いて、私に欠けていたのは「もう一回言ってください」と言う勇気だった、とハッとしました。彼のおかげで、英語が聞き取れなくても全く恥ずかしいことではない、と思えるようになり、英語に対する怖さがなくなりました。

【予測できない時代のキャリアプラン】自分ができることを一つに絞らず、第二・第三のプランを常に考える

日本と違い、解雇が身近にあるアメリカ。先輩の言葉でキャリアプランに対する考え方が変わった青木さんがとった行動は?

森さん 青木さんはアメリカでキャリアを積まれているので、日本とアメリカのキャリアの違いについて伺いたいと思います。

青木さん アメリカでは突然解雇されることも少なくないので、皆さんは常時、第二、第三のキャリアプランを考えながら人生を送っています。キャリア転換はもちろんのこと、自分ができることを一つに絞りません。航空業界でも、パイロットをしながら輸入雑貨店やガソリンスタンドを経営するなど、第二、第三の仕事を持っている人が多くいます。

森さん 青木さんも、そうされていたのですか?

青木さん いえ、最初はパイロットで食べていくことしか、考えていませんでした。

9.11(アメリカ同時多発テロ)事件が起きた時、空が閉鎖され、誰も飛べない時期が二週間ありました。当時、私は教官をしていて、 給料制ではなく飛んだ時間だけお金をいただける契約だったので、二週間収入がないという状況に陥ったのです。その時、先輩に「今回はテロだったが、もしも体が不自由になって飛行機を操縦できなくなったら、あなたはどうするつもりだ?どうやって食べていくのか?」と言われたのです。

その言葉を聞いてキャリアに対する考え方が変わりましたね。その後、大学院に行って航空安全を勉強し、もしも飛べなくなった場合は地上に降りてマネジメントにキャリアチェンジすることも検討しました。また、副専攻でアートや植物について学び、得意な陶芸で食べていけないかなど、手に職をつけることを考えた20代でした。

【解雇を乗り越える】現在はパン屋を経営。後進女性パイロットの課題・悩みを解決するサポートも

諦めずにチャレンジし続け、渡米から約14年後 、ついにパイロットに。解雇も経験しながら、パイロットとして10年以上勤務します。現在はパン屋をしながら後進の女性を応援するコミュニティも運営しています。

森さん 努力を重ねられ、ついにパイロットになる夢を実現されましたね。

青木さん はい。念願叶ってエアラインに就職し、パイロットになりました。しかし、2年目の2009年、燃油チャージの高騰により景気が下降し、解雇されてしまいました。ただ、複数のキャリアプランを考えていたこともあり、あまり動揺はしませんでしたね。その後、同エアラインに再就職してパイロットを10年以上続け、つい最近までプライベートジェットのパイロットをしていました。現在は育休中で、実はパン屋を開業しました。

森さん パン屋ですか。素敵ですね。

青木さん 「今の自分にできることは何だろう」と、キャリアについて考える中で決めました。私はオレゴン州の南に住んでいまして、この土地の酵母菌を使ってカンパーニュを焼いています。他には、日本のあんパンやメロンパン、焼きそばパンなども売っていますね。他の活動としては、2007年に創立した「Asian Women in Aviation」というコミュニティで、400人強のメンバーと一緒に、アジアの女性パイロットと航空業界の課題や悩みを解決するためのサポートをしています。

【背中を押すメッセージ】人との出会いを大切に

森さん これから自分の夢を実現しようと考えている方々へ、背中を押すメッセージをお願いいたします。

青木さん 私からのメッセージは、「人との出会いを大切にしてほしい」です。自分ひとりで頑張ってもできないことがあります。そのような時は、応援してくださる方や周りの人の助けがあって壁を越えられることが多いのです。私にとっては、パイロットを諦めかけたときの祖父の言葉や、アメリカでのキャリアについての先輩の言葉が、まさにそれです。人との出会いを大切にしていくと、夢が叶うのではないでしょうか。

『森清華のLife is the journey』
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