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コンピューター販売会社から鋼製型枠メーカーへ。経営危機を打開し、世界のインフラ構築を支える
本記事は、WOW WORLDがスポンサーを務めていたラジオ番組『森清華のLife is the journey』の放送内容の一部をテキストでご紹介するものです。
当番組は2025年3月に終了するまで、かわさきエフエム(79.1MHz)にて8年半にわたり放送。パーソナリティの森清華さんが、最前線で活躍されている企業経営者や各界のスペシャリストの“人生の分岐点”から「これからのキャリア、生き方のヒント」を紐解きます。(※文中の組織名、ゲストの方の肩書等は放送当時のものです。)
今回はゲストに、株式会社ケーエムエフ 代表取締役会長 小島浩光さんをお迎えしました。新卒でコンピューター販売会社に入社し、ソリューション営業で鍛えられた20代。結婚を機に義理の父が経営するケーエムエフに入社します。慣れない職人の世界に戸惑いながらも、自分にできることは何かを考えながら取り組み続け、36歳で社長に就任。市況悪化による経営危機を乗り越え、業界のリーディングカンパニーとして走り続ける小島さんに、事業を広げていく上で大切にしている視点を伺いました。
新卒でコンピューターの販売会社に入社した小島さんは、ソリューション事業部でお客様の話を聞きながら試行錯誤する日々を送ります。その後、全く違う分野の仕事へ転職することに。
森さんー 小島さんはどういったところからキャリアをスタートされたのでしょうか?
小島さんー 大学卒業後、オフィスコンピューターの販売会社に就職し、ソリューション事業部に配属されました。既存の製品を売るのではなく、お客様にとって便利なサービスを新たに作って販売する仕事でした。
新人でしたので、最初はお客様からの要求が分からないことばかり。例えば、今なら当たり前のタッチパネルを組み込んだソフトウェアの開発など、当時としては前例のない取り組みです。分からなくてもとにかく話を聞き、社内に戻ってから先輩たちに相談し、いろいろ試行錯誤しながら仕事をしていました。
森さんー コンピューターの販売会社で奮闘される中、転職を決められたそうですね。
小島さんー はい、結婚を機に転職しました。結婚後は実家の秋田に帰って頑張るつもりでしたが、妻の父から「東京で私の商売を手伝わないか」と言われまして。最初は、「ビルや線路で使用するコンクリートの型を作る仕事」と説明を聞いてもピンと来なかったのですが、「先のことは分からないけれど、まずは飛び込んでやってみよう」と思い、ケーエムエフに入社しました。
未経験の分野で、社内のコミュニケーションにも苦労する日々。「自分にできることを」と営業を続け仕事を獲得してくるなかで、信頼関係を築いていきます。
森さんー コンピューター販売から全く違う業界に入ったわけですが、当時の心境はいかがでしたか?
小島さんー 無我夢中でしたね。やはり分からないことだらけで、それまで自分が積み重ねてきたものがなかなか生かせませんでした。
金属を切断したり溶接したりして立体的な構造物を作る「製缶板金」の職人の世界では、お互いのコミュニケーションより、個人が力をつけ、各々が仕事を進めることで成り立つ部分があります。仕事について分かっていなかった私は、会社のメンバーから相手にされません。職人とのコミュニケーションも難しく、苦労しましたね。
そこで、「今はできることをするしかない」と考え、これまで付き合いのなかったところへ営業に行くことにしたのです。当時のケーエムエフは営業担当から設計担当まで、自分のお客様のためにとことん取り組み、それ以外は関与しないという働き方でした。ただ、依頼が継続されることは少なく、仕事はどんどん細っていくという状況でした。
しかし、実は仕事がないのではなく、求めてくださるお客様と出会っていなかっただけだったのです。さまざまなお客様のところに行って話をする中で、新規開拓をすることができました。新たに仕事を取ってくれば、職人たちも一生懸命仕事をしてくれます。最初は、分からない中で仕事を取ってきて叱られましたが、ひたすら続けていくうちに、少しずつ人間関係ができてきました。
社長に就任した後、建設業界の不況により会社の業績は過去最悪に。コンクリート技術の進歩を機に新たな販路を開き、職人の技を生かして業績を回復します。
森さんー 36歳で社長に就任されたとのことですが、当時の会社の状況や取り巻く環境はどのような感じでしたか?
小島さんー 私が社長になった時から、会社の業績が今までにないほど悪化しました。当時はバブル崩壊後で、先代からバトンタッチした時、ちょうど建設の市況が冷え込み始めたのです。
弊社は55年前、主にビルの外壁を作る型枠製作を始めたのですが、私が社長になった時にその仕事がゼロになってしまいました。市場全体が下落傾向にある中で、事業全体の1/3以上を占めていた仕事が一気になくなり、もうお先真っ暗。正直言って生きた心地がしませんでした。その頃の2~3年のことは、私もよく覚えていません。
森さんー そこからどうやって立ち直っていかれたのでしょうか?
小島さんー きっかけは、販路を変えたことです。昔は50mから60mぐらいのマンションを建てるのがやっとだったコンクリートの技術が進化して、100mから200mの高層マンションを建てられるようになってきたのです。それまで直接ゼネコンに行くことはなかったのですが、積極的に訪ねていき、情報をいただいたり直接仕事を受けたりするようになりました。
最初は、未知の領域の仕事ということもあり、大きく損失を出すこともありました。しかし、建築図面が読めるなど、もともと持っていた職人の技術を生かすことで、業績回復につながりました。最終的には2年間で大きな赤字は止まったのですが、本当に苦しかったですね。
大きな危機を成長の糧に変え、現在は業界のリーディングカンパニーとして著名な建築やインフラ構築を支えています。事業を広げていく中で小島さんが大切にしていることとは。
森さんー 現在、どのような事業を展開していらっしゃるのでしょうか?
小島さんー 建設現場に運搬して据え付けと組み立てができるコンクリート資材「プレキャストコンクリート製品」を作るための鋼製型枠を製造しています。型枠があることで、建物の壁などを構成するコンクリート部材をあらかじめ工場で量産することができるため、効率アップが図れるのです。直近ですと国立競技場のスタジアムや六本木ヒルズなど、多くの建築やインフラ構築を支えています。
森さんー 国内だけではなく、インドネシアにも市場を広げているそうですね。事業を広げていく中で、どのようなことを大切にしていらっしゃるのでしょうか?
小島さんー 人付き合いが大事だと思っています。海外に事業を展開するきっかけとなったのは、2013年に開催されたインドネシア・日本国交樹立55周年記念イベントに、友人に誘われて参加したことです。
当時は海外展開について考えていませんでした。しかし、インドネシアの成長性を肌で感じて「彼らと仕事ができればいいな」と考えるようになり、ご縁から実習生の受け入れを始めたのです。
インドネシアの方々も優秀であることから、多くの人に来てもらうようになりまして。彼らが母国に帰ってからも仕事ができるよう、インドネシアにも会社を設立しました。今では、インドネシアのみならず、東南アジア、南アジアまで幅広く展開しています。
森さんー これから自分の夢を実現しようと考えている方々へ、背中を押すメッセージをお願いいたします。
小島さんー とにかく自分の夢や思っていることを人に話すようにしています。
伝えることで、共感したり覚えていてくれたりした方から「こういう話があったよ」「これ、役に立つのでは?」とお話をいただき、新たなご縁や仕事につながることがありました。
人との付き合いを大切にし、夢や思いを伝え続けることが大事だと思います。
『森清華のLife is the journey』
→アーカイブ放送は、こちらからお聴きいただけます
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